ツイッターなるものが出来た経緯を、物語った映画を見たことがある。
ソーシャルネットワーキングが、「携帯」と略する「パーソナルスペース」と同時に
確立していった。
「携帯」とは、「携帯電話」の略であるのだが、これを「良し」とする人と、
これを、「パーソナルスペース」、つまり、己の唯一の守るべきスペース、
それは「人権」にも似た、ある種の「守るべきスペース」を、「侵略する」
あこぎなものとして、「物申す」、その声は、小さき「声」であったのである。
「便利」になったのは、「待ち合わせ」において、「すれ違い」が起こらない、
どこにいても「携帯」を鳴らせばいい、それは「安心」としての「進化」である。
「核家族」なるものが、「問題」になったのは、昭和という時代であった。
「家族」が、お茶の間、つまり、「居間」で一緒に過ごすよりも、「一人部屋」を
望む「子供たちの声」が、後に「自由」を求めるイレギュラーとして「新人類」などと
言われたのである。
会社に従順に従うものが「もてはやされる」時代は、とうに過ぎた。
なぜ「定年まで」、その身を会社に捧げるものが「良し」とされていたのか、
「継続」こそが、ステータスであるというのは、それが難しいという「価値観」の中で
得ることができるのだ。
「継続は力なり」、「働かざるもの食うべからず」、これは「昭和」の時代のみならず、今も蔓延る「OS」であろう。
規則や法律は、「上の者」に「都合の良い」、ただそれだけである。
「大義名分」は、誰しも「必要」なのだ。
「承認欲求」という、心理学が「一般的」になったのは、「ツイッター」という、
ただ「今の気持ちを瞬時に出せる」、思考など関係ない、誰かが傷つくよりも、
より「自分自身」を優先する「正義」であった。
ここで、私は「あった」という「過去形」をあえて使おう。
「死」に物議を醸し出さない、あなたは何者であろうか?
働くだけ働いて、あなたは「一国の城」を建てたのだが、ローンを支払い終えた後、
「病気」に、見舞わられ、あなたの「城」に住むことなく「病院」で、その
一生を終える。
「単身赴任」ということに、何の「疑問」を抱かないのは、「日本」だけでは
なかろうか?
「輪廻」とは、「生まれ変わり」ということなのだが、それは「やり直し」とも
言えるのだ。
「後悔先に立たず」、私は「死」に立ち会った時、それを実感した。
ここで、米津玄師さんが「もったいねーの」と、うるさいので、ひとまず
書かずに終わろうかと思う。